「ちょ、離してくれってば!」
――――ん?
地図を畳んで歩き始めようとした途端、突然響いてきた大声に眉を上げる。その後の声はうまく聞き取れないが、何やら言い争っている様子だ。
酔っ払い同士の喧嘩か?
あまり係わり合いになりたいものではないが、横手の方に人影が見え、どうやら二人の男に少年が一人、絡まれているらしかった。
「こんな寒いトコに突っ立って、待ち合わせでもねぇだろうが。迷ったんなら、行きたい所に連れてってやるっつってんだろ」
少し近付けば、話し声もはっきりと聞こえてくる。
「だから、必要ないんだって!もう道は分かってるから、ホント、離してくれよ」
「離してくれよ、だってさ。大人しく財布を差し出しゃいいんだよ」
少年の鞄を掴んでいた男が下卑た笑い声を上げ、右腕を捻り上げた。
「痛ッ……!」
――観光客狩りか。やり過ぎだ。
苦痛に歪む少年の顔を見て眉を顰めると、怜は三人に近付いて行った。
「俺の連れなんだけど」
短く言い、男達をじっと睨み付ける。
元々怜は長身の恵まれた体格をしており、一見取っ付きにくいとさえ言われる程目付きに鋭さがある。睨めば大分凄みが効く。
それでも喧嘩になれば向こうの方に多少分があったかも知れないが、運良く他に人が来る気配で、男達は舌打ちして去っていった。
「大丈夫かよ。……歩けるか?」
腰を折り、蹲っている少年に怜はそっと声を掛ける。頷いて上げた目は、痛みで縁が赤く染まっていた。間近で見ると、二重の大きな目が印象的な、整った顔立ちの少年である。
肩に手を添えて怜は少年を立たせてやった。
「ありがとう」
礼を言う声が、緊張の為か寒さのせいか、微かに震えている。
「いや、いいよ。それよりお前、何処に行こうとしてたんだ?俺も観光で来てるから道はよく分からないけど、あいつらも気になるし、途中までなら一緒に行くぜ」
怜を見る目が、困ったように道の向こうへと向けられた。
「ホテルに向かってたんだけど、道が分からなくて」
言い難そうに呟く声に、怜は思わず笑ってしまった。
「本当に迷ってたのか。何処のホテルだよ?」
「此処なんだ。地図は載ってるけど、通りを間違えたらしくて」
少年は相変わらず恐縮した様子で、持っていたパンフレットの地図の頁を開いて怜に渡す。
怜は一瞥しただけで、そのパンフレットを返した。
「方向は間違ってないよ。それ、俺も泊まるホテルだからさ。一緒に行こう。お前、名前は?」
「直樹。久保直樹」
蹲った時に付いた、コートの裾の雪を払うのを待ち、思い掛けず出来た道連れと肩を並べ、怜は再び歩き出した。
ホテルに着くまでの間に、第一印象では高校生くらいかと思った直樹が二歳年下の大学一年生である事、怜と同じく東京から来た事、元々は札幌のホテルに予約を取っていたが、電車の車両トラブルで札幌に戻るのが困難になった為、急遽小樽で宿泊場所を確保しなければならず、駅の案内を見て咄嗟に決めたのが二人が向かっているホテルである事等を、怜は聞き出していた。
電車の路線は確かJR一本だったはず、と思い出し、
「もう少し空港の到着が遅れていたら、俺は逆に小樽に辿り着くのに足止めを食ってたかもな」
と、怜は苦笑した。
弘人のキャンセルに加えて更にケチが付くのは、辛うじて避けられた訳だ。
怜も簡単な自己紹介と今回の旅の経緯を直樹に話し、着く頃には、すっかりとは言わないまでも、大分二人は打ち解けていた。
そして一人分のキャンセルが直前だった為、怜の部屋がツインのままになっている事が判明したのを幸い、直樹が弘人の代わりに宿泊する事になったのだった。
旅は道連れ、だな。
怜にとって直樹は、思いがけずありがたい同行者になりそうだった。
本来一緒に居るはずだった弘人が持っている、一歩間違えると騒々しい程の陽気さはないが、最初の遠慮が解けると意外に饒舌で、少し低めでいて柔らかいトーンの声は耳に心地良かった。
直樹は急に思い立っての旅行で、当初から一人旅の予定だったようだが、話し相手に飢えていたらしい。部屋のソファーで寛ぎながら、他愛の無い話から少し立ち入った話までしている内にお互い時間を忘れ、元々到着が遅かったせいもあるが、いつの間にか時計は深夜を回っていた。
「そろそろ寝ないとな。直樹、お前は明日どうするんだ?今日で小樽を離れるつもりだったんだろ?」
ベッド上にはめ込まれているデジタル表示の時計に目を遣り、伸びをしながら怜が尋ねる。つられるように時計を見た直樹は、考え込むように目を細めた。
「怜ほどじゃないけど、俺も小樽には今日到着して、実を言うとあまりゆっくり出来なかったんだ。足止め食ったのも何かの縁だと思って明日も残ろうかな。怜さえ良けりゃ、一緒に行動したいんだけど」
「勿論、俺は構わないよ。正直旅慣れてるわけじゃねぇから、独りじゃ退屈だって思ってたしさ」
言いながらシャツを脱ぎ、部屋に備え付けのバスローブを取り上げる。
「暖まってから寝るわ。先にシャワー、使っていいか?」
振り返った怜は、自分の剥き出しの上体から不自然に視線を逸らした直樹に気付き、首をひねる。
「何だよ。そんな、見て恥ずかしがられるような身体してねぇぞ」
特別に何をしている訳でもないが、体を動かすのが好きで鍛られた身体は、元々生まれ持った長身と相俟って、ちょうど良く均整が取れている。自分でそれを否定するつもりはないが、女性ならいざ知らず、男の直樹が目の遣り場に困っているのを見るとこそばゆい。
「あぁ、お前、細っちい身体してるもんな。コンプレックス感じた?」
「感じてない。早く入ってこいよ」
唇を尖らせタオルを投げ付ける直樹に笑いながら、怜はシャワールームに入って行った。
――結構冷えるな。
部屋の灯りを消すのとほぼ同時に寝入ったものの、寒さで怜は目を覚ました。
普段はどんなに寒い日でも、空気が乾燥するのが嫌でヒーターを点けて寝たりはしない。直樹にことわって運転を切らせてもらったのだが、慣れない北の地の寒さを甘く見ていた。シャワーで補給した熱も、すぐに奪われてしまったらしい。
時計を見ると、思った程長くは眠っておらず、夜明けまではまだ大分ある。
枕元の灯りを探って点ける。
起き出そうとした気配に目が覚めたのか、背中を向けて寝ていた直樹がゆっくり寝返りを打って怜を振り返った。
「起こしたか、ごめん。なんか、やっぱ寒くて目が覚めちゃってさ」
仄かな灯りに重い瞬きを繰り返し、欠伸をしつつ直樹も時計を見遣る。時間を確認すると、寒そうに腕を擦りながら上体を起こした。
「ヒーター点けようか。背に腹は代えられないし、風邪を引かせたら悪いしな」
怜の言葉を聞いているのかいないのか、直樹は問い掛けには答えずベッドから降り、眠たげな目を擦って怜のベッドに潜り込んで来る。驚いたのは怜で、懐の辺りに肩を丸めて落ち着き、頬を胸元に付ける直樹を、呆気に取られて見下ろすばかりだ。漸く我に返ると、慌てた様に怜は目を見開いた。
「おい。お前、寝惚けてんのかよ?」
肩を掴み、軽く揺する。
直樹は微かに眉間に皺を寄せ、目だけを上げた。
「…………かい」
「あ?」
「暖かい……。くっ付いてれば寒くないよ。このまま寝ようよ」
怜の腰に腕を絡み付かせるように回し、心地良さそうに息を深く吐くと、再び頬をバスローブの縁に沿うように摺り寄せて直樹は目を閉じてしまう。
困り果てた怜は、腕の中であっという間に寝息を立て始めた直樹を見詰め、戸惑いつつもそっと布団を引き寄せた。
確かに、身を寄せ合えば格段に暖かい。しかし男と二人でベッドの中、というシチュエーションは、さすがにどこか居心地が悪いものがある。まして二人は出逢ったばかりだ。
それでも直樹を起こし、ベッドから出て行け、と言う気に、怜は到底なれなかった。
理由は分からない。ただ、何となくだ。
――これが弘人だったら、間違いなく蹴り出すのにな。
小さく笑い、ゆっくり背中に腕を回す。
小柄な直樹は、怜の腕の中にすっぽり収まってしまう。とは言え、今まで怜が付き合った女性とはやはり抱き心地が違った。全体的な柔らかさは勿論の事、些か痩せ過ぎなのか、特に腰から尻に掛けての丸みが無い。だが、微かに開かれた唇やバスローブから覗く白い胸元からは、艶かしい、女の色香にも似たものを漂わせているように感じた。
何考えてんだ俺は。すげぇあさましいんじゃねぇか?
その胸元に触れてみたいような衝動に駆られ、怜は苦笑して直樹から目を逸らした。
身動きしたからか、直樹が寝言ともつかない声を漏らす。腰に回された腕にも心なしか力が込められた。
気まずそうに口元を歪め、腕を伸ばし、枕元の灯りを怜は消した。
一年前、怜は彼女にフラれた。正確には、彼女達に、である。
当時、仕事をしている年上の彼女と友達の紹介で知り合った同い年の彼女と、怜は二股を掛けていた。
今振り返ると、思い上がっていたと深く反省するのだが、その頃はさほど罪悪感も無かったのだ。
しかし、罪悪感も薄ければ巧みに隠す事も怠って、いずれ双方に知られるところとなると、一度壊れた信頼を修復するのは不可能だった。
「恋に恋するような付き合い方、すんなよ」
とは、事情を知った弘人に言われた言葉である。
確かに、自分勝手な恋だった。相手の事をよく知ろうともせず、相手の想いを真摯に受け止める事もせず、ただ自分の寂しさや欲求、自意識を埋める為に求めた恋。
だが言い訳をする訳ではないが、本当の恋を見付ける事が出来る者は、一体どれだけ居るのだろう。何処か空虚な恋愛は、そこかしこに溢れ返っている。
その一件から、壊れる事を恐れるほど臆病ではないが、壊れる事を恐れない恋に嫌気が差して足踏みし、「女友達」と称される付き合いは幾つかしたものの、「恋人」と呼べる人は出来ないままになっていた。
つまりは他人と身体を寄せ合い眠る事も最近無く、妙な色香を感じてしまうと、落ち着かない気分になっている自分に気付く。
相手は男だっての。どれだけ飢えてんだよ。本当にあさましいな。
軽い虚しさすら覚えながら、枕に顔を付け、溜め息を漏らす。
それにしてもコイツ、無防備って言うか甘えたって言うか……。相手が相手なら男でもわかんねぇし、まして女が相手なら、躊躇いなく逆にいただかれちまいそうだぞ。
そんな冗談めかした事を考えながら、背中がしっかり隠れるように、布団を直してやったりしていると、思い起こしてしまった一年前の件の苦々しさが和らいでいくようだった。
「おやすみ」
小さな声で呟いて目を瞑り、直樹の優しい息遣いを聞いている内に、いつしか怜も深い眠りに誘われていた。
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