空の色
君といつか桜の頃に

 帰りの道中は、行きよりも更に気が重かった。
 怜は荷造りを済ませて早々にホテルを後にし、フライトまでの時間を札幌で、大半は歩き回るだけに費やし、新千歳空港へと向かった。
 空港で搭乗手続きの為に航空券を取り出そうとした時、怜は直樹の本を預かったままだったのに気付いた。晩飯を食べた所で話の種になり、直樹から拝借したのだが、ちょうど食事が運ばれてきた際に取りあえずと、鞄に入れてしまっていたのである。
 長い睫の目を伏せ、文字を追っていた直樹の横顔を思い出しながら、怜は本をパラパラとめくった。
 内容は、海外作家が書いた歴史小説らしい。ふと、中ほどで手が止まる。
 暫しその開かれた頁に、怜の目が釘付けになった。
 一体これは、どういう事だ?
 答えを導き出すのは難しかった。
 しかし、絡まりあった糸がやがて解け、一つになった時、怜はほぼ正しい答えに行き当たった気がした。

 昼休みが終わる頃の時間でも、次の講義が休講だったりし、時間を潰すのが目的の学生で学食は賑わっている。
 目指す約束の相手を探してホール内を見回す怜に、窓際のテーブルで、先に気付いた弘人が手を上げていた。
 
「お前、掲示板見た?何かまたレポート出てただろ?あの教授、レポート好きだからホントまいるよな。大体課題がマニアック過ぎて、資料を探すのも大変だっての」
 席に着くか着かないかの内に口を開き、滔々と弘人が話し始めるのを頭半分で聞きながら、怜は鞄の中から一冊の本を取り出した。直樹が部屋に忘れていったその本を、弘人にそのままテーブル越しに差し出す。
「ん、何?」
 話を中断して不思議そうに本を受け取った弘人は、表紙をめくり、中身を少し拾い読みすると、益々意外そうな顔をした。
「お前、歴史小説とか読むんだ?つーかこれ、俺に貸してくれんの?」
「それ、直樹がホテルの部屋に忘れていったんだよ」
 さり気ない口調で言う怜に、弘人は頁をめくる手を止め、本を閉じた。
「よく俺だってわかったな。何で?」
 怜は手を伸ばして弘人から本を取り、スッと頁を開いて見せる。
 そこに挟まれているのは、大学の校章が入った栞だった。
 
 空港で本の間からこの栞を見付けた時、怜は直樹の通う大学が、自分と同じ大学なのではないかとすぐ思い至った。しかし、怜が直樹から直接聞いたのは、別の大学名だったのだ。
 故意に別の大学だと答えたのかも知れない。だが、栞は大学の購買などに行けばレジ横にいつも積まれていて、学生なら誰でも自由に持っていける。たまたま何らかの経由で、偶然直樹の手に渡ったとも考えられた。
――少なくとも、探そうと思えば手がかりはある訳だ。名前が偽名じゃなけりゃ、どちらかの大学では見付かるかもしれない。でも、仮に直樹が俺と同じ大学だったとして、それを隠す理由があるか?
 隠す理由――突然思い当たった考えに、怜はまさかと首を振った。
 それは、直樹が以前から怜を知っていたのではないか、という事だった。
 一度は打ち消したものの、気になり出すと落ち着かない。
 この空港内で、それを確かめる方法は一つだけあった。
 怜は、空港の地下のJR乗り場へと急いだ。
 駅員に聞いたところ、二日前、札幌から小樽間の運行トラブルは無かった。

「校章か……成る程ね。これだけですぐに俺って気付いたんだ?」
 栞を取り上げ大袈裟なくらいに弘人は納得して頷き、感心して問い掛ける。
「そうでもないな。色々な可能性があったし。でも、偶然だと思ったアイツとの出逢いが、偶然じゃなくて仕組まれたものだって考えていったら、もうお前しか浮かんで来ないだろ。旅行をキャンセルしたのも、あのホテルを予約したのも、全部お前なんだからさ」
 弘人がテーブルに置いた栞に、怜は視線を落とす。
「旅行に行こうって言い出したのが、そもそも俺と直樹を引き合わせる計画だったんだな?聞いておきたいんだけど、どうしてそんな事になったんだよ」
 怜の話を黙って聞いていた弘人は、考え込むようにチラッと上を向き、ゆっくり話し始めた。
「直樹、サークルの後輩なんだよ。アイツさ、綺麗な顔してるから女の子にもモテるのに一向に関心薄そうだから、どうしてかって訊いたら、あっさり『俺、ゲイなんだ』って認めやがって。俺は別に偏見ねぇから、あ、そうなんだって感じだったんだけど。それがさ、最近になって、俺がアイツによく話だけはしてた『さとし』と、アイツが構内で見掛けてずっと憧れてた愛しの君が――別におちょくってる訳じゃないんだからんな顔すんなよ。とにかく、アイツがお前に片想いしてるのがわかって。すげぇよな。一目惚れだって。お前のどこにそんな魅力があるのか、俺にはさっぱりわかんねぇよ」
 少なくとも、初めて逢った時に怜を見初めた、という直樹の言葉は、嘘ではなかった訳だ。
「ちょっと待て」
 いつもの事だが、立て板に水で続いていく弘人の言葉を遮り、怜は眉根を寄せる。
「だったら普通に紹介すればいいじゃねぇか。俺のサークルの後輩です、って言ってくれりゃいい事だろ?何であんな回りくどい事をしたんだよ」
「そりゃ怜、お前、いきなり直樹を会わせてさ、『彼、お前の事好きなんだけど、付き合うのどう?』って言って、驚かないでいられるか?」
 弘人の切り返しに怜は絶句し、黙り込んでしまう。
「だろ?お前がノーマルなのは明らかだから、アイツも延々片想いのつもりだったみたいなんだよな。でもさ、俺がお前の話をすると、すげぇ嬉しそうに聞いてるのとか見てたら、放っておけなくなるじゃん。つい世話を焼きたくなっちまった訳」
 一体どんな話をしてたんだか。
 次々に明かされる事実に、怜は着いて行けなくなりそうだった。
「旅の空だと気分も開放的になるし、大学とかのしがらみも最初から無ければ、多少はお前の本音っつうか、まぁ、取っ掛かりが出来るかなって。取り敢えず舞台設定だけするから、後は二人次第って事で、そうだな、つまり直樹を炊きつけた訳だけど……」
 段々声が尻すぼみになり、困ったように頭を掻く弘人を見遣ると、テーブルに置かれた本を怜は片手に持つ。
「俺からこの本、返したいんだよ。お前なら、連絡取れるんだろ?」
 暫しの間があった。
 怜の言葉の意味を考えあぐねているのか、様子を窺っているのか、弘人は怜の顔から目を離さずじっと見詰めている。
 やがて、その口から漏れたのは、深い溜め息だった。
「連絡なら出来るけど……俺、何があったか全然知らないんだよ。直樹と一応話はしたけど、お前とはうまくいかなかった、としか聞いてないし。それ以上訊けるような様子じゃなかったし」
――うまくいかなかった、か。
 弘人の言葉が怜の胸に痛かった。
「俺の計画が適当だったから、それで何かトラブったんじゃないかとも思ったんだけど」
「ああ、それは多分トラブった。初めて俺らが逢った時、あいつ、変なお兄さん達に絡まれてたぞ。あれ、計画外だろ」
「ええ?マジ?聞いてねぇよ!」
 一人で騒いでいる弘人を放置し、残された直樹のメッセージを思い出しながら、怜は肘をついて組んだ手の上に、顔を伏せた。
 やっぱり、アイツを傷つけてたか。
 深い溜め息を吐いて顔をゆっくり上げると、弘人と視線が合う。
「会いたいんだ」
 直樹への想いを込めた怜の言葉を聞いても尚、弘人は暫く考え込み、迷っているようだったが、やがて笑って頷いた。
 途端、椅子から伸び上がり、学食のざわめきに負けない位の大声で呼び掛ける。
「おーい、直樹!」
 一斉に学食中の視線が弘人に集まった。怜も面食らったが、一番驚いたのは直樹だったろう。自分の名前を呼んだ声の主を探して周囲の視線の先を辿り、数メートル先のテーブルに、弘人だけではなく怜の姿も見付けて、文字通り凍り付いている。
「さっき、入ってくるのが見えたんだよ」
 ひらひらと手を振る弘人と怜の顔を見比べ、如何にも戸惑っている直樹に、怜は外に出るよう手振りで伝えた。足早に直樹は出口に向かう。怜は鞄に本を入れると、軽く弘人の頭を小突くのも忘れず、急いでその後を追った。
 
 大学のキャンパス内で話すのはあまり得策ではない。人の話に耳を傾ける物好きもいないだろうが、何より、これから直樹と交わす会話を誰にも邪魔されたくなかった。
 怜は無言のまま直樹を大学の外に連れ出し、あまり学生達が居ない、駅とは反対側の方向へと歩いて行った。直樹は硬い表情のまま、黙って着いて来る。
 児童公園の脇を通った時に鳩が一斉に飛び立ち、直樹が驚いて空を見上げ、それをきっかけに怜は口を開いた。
「どうして急に居なくなったんだ?」
 予想通りの答えが返ってくるなら、直樹に言わせるのは心苦しかったが、怜の口から言えば再び直樹を傷つけそうで、敢えて怜は直樹に問うた。
 爪先に当たった小石を軽く直樹が蹴る。石は思いのほか飛び、小気味いい音を立て、歩道の側壁に当たって止まる。
「俺の気持ちが、怜には重くなるって気付いたからだよ。俺は……もう怜と離れたくなかった。ずっと傍に居たいと思ってた。でも、怜にとっては違うって気付いた時に、これ以上好きになってしまう前に、離れなきゃいけないって思ったんだよ」
 一息で言い、怜の顔を真っ直ぐに見詰める直樹の目は、まだ怜に恋焦がれている故の苦痛が滲んでいた。
「ただ、これだけは直接言いたかった。騙してごめん。電車のトラブルも、ホテルの事も、何もかも嘘だった。それから……一日かそこらだったけど、一緒に過ごせて嬉しかったよ。ありがとう」
 言い終えると顔を背け、そのまま立ち去ってしまいそうな気配に、直樹の腕を怜は素早く捉えた。
 見上げる直樹の目が、離して欲しい、と訴えている。
 だが、怜はその腕を決して離すつもりはなかった。
「好きだって言葉が、信じられなかったのか?」
 抑えようとしても口調が強くなる。
「確かに俺は、誤解させるような言い方をしたかも知れない。実際、大学に戻ってからのお前が居る生活が実感無さ過ぎて、不用意に言っちまった言葉もあった。後ですげぇ後悔したよ。でも、決してお前の事を手放そうなんて思ってた訳じゃない」
 怜の言葉に、喉元に込み上げてきた塊を飲み込み、直樹は眉を顰める。
「でも、俺は男だし――」
「お前、俺に抱かれれば女になれるとでも思ってたのかよ。違うだろ?俺だって、お前が男なんてのは百も承知で言ってんだよ」
 絶句して立ち止まった直樹の顔を見て、つい持ち前の口の悪さから言い過ぎた事に気付き、怜は困ったように直樹の頭に手を置いた。
「俺だって相当ショックだったんだよ。お前は、そんな風にあっさり俺の事を諦められるのかって。俺は違う。お前の事、諦められねぇよ」
 直樹の睫が震えた。
 目の縁を赤く染め、俯いた直樹の肩に手を掛けると、怜は両瞼の上にキスを落としていく。
「もう、二度と居なくなるんじゃねぇぞ」
 コクッと頷いた直樹の髪に、冬の陽光が優しく降り注いでいる。それを眩しく見詰めて目を細め、怜は身を屈めて口付けを重ねた。
「……次は、春休みにでも京都に行こうぜ。桜の京都、行った事ないんだよ」
 些か照れくさくなり、首の後ろに手を遣りながら笑って言う怜の言葉に、顔を上げた直樹は、心底嬉しそうに微笑んで頷いた。

END


 
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